会津鉄道
会津下郷駅
2020-12-01
二度目の登場である。久しぶりに訪ねた。
下郷とは会津西街道の起点日光からみて、大川の上流で、上郷(田島)そして塔のへつりに通じる下流が下郷と聞いた覚えがあるが定かではない。立ち寄った時にタクシーが停まってお客を待っていたので、多くの観光客が利用しているのではないかと想像した。駅と喫茶店が結ばれて営業していると店員が話してくれた。
昔、叔母が学校の先生をしており私が小学生の時、折にふれ、会津田島からこの下郷(楢原)の学校まで通勤していたと(叔母から)聞いていたので、なぜか懐かしさがある駅である。こんどはゆっくりコーヒーをいただきたい。
弥五島駅
2020-12-01
たしか小学校5年生だから昭和35年の頃、小学校(当時の田島町立田島小学校)の遠足で、田島駅から機関車で弥五島駅に降りて、塔のへつりを見学して湯野上駅まで歩いた。
今のような道路ではなく砂利道で狭い道路だった。何十回も国道289号線を通過していたが約60年ぶりに駅に立ち寄った。弥五島の名前の由来は分からないが、弥五島から湯野上までは一里(4km)あると先生が話していた事がかすかに記憶にあり長いと感じた。
故に何故だか、人生の出発点のような気がずーとしていた。
芦ノ牧温泉駅
2011-02-14
芦ノ牧温泉駅は会津若松市大戸町上三寄(かみみより)にあり、会津鉄道になる前JRの時は上三寄駅と称した。芦ノ牧温泉までは車で15分位であり、阿賀野川の支流である大川には会津の殿様であった芦名家の梁場(やなば)が設けられ、芦名家の軍馬放牧場であって「芦名の牧」から芦ノ牧となったそうであるが、いまでも旧道から入る梁場に「殿様梁場」との名称を使用している。数年前にこの梁場で鮎を食べた。
この駅舎は何度か訪問しているが、名誉駅長である猫の「バス」には一度も面会出来ていなかった。行く度に散歩中であったり、住処で熟睡中だった。今回は出迎えるているかのように駅舎の玄関に堂々と居てくれていた。
縁があって冬の会津線の駅を訪問する回数が多くなっている。地元で生活する方々には今年の冬は雪が多く大変であるが、久し振りに大雪を見て昔を懐かしく思い出している。
名誉駅長がいるお陰で遠くからの観光客も多く、又、御土産の売り上げも上昇しているようである。TVにも取り上げられ人気に支えられて会津線の利用がますます進むことを念願している。
この駅舎は何度か訪問しているが、名誉駅長である猫の「バス」には一度も面会出来ていなかった。行く度に散歩中であったり、住処で熟睡中だった。今回は出迎えるているかのように駅舎の玄関に堂々と居てくれていた。
縁があって冬の会津線の駅を訪問する回数が多くなっている。地元で生活する方々には今年の冬は雪が多く大変であるが、久し振りに大雪を見て昔を懐かしく思い出している。
名誉駅長がいるお陰で遠くからの観光客も多く、又、御土産の売り上げも上昇しているようである。TVにも取り上げられ人気に支えられて会津線の利用がますます進むことを念願している。
ふるさと公園駅
2011-02-14
2002年に会津下郷駅と養鱒公園駅(ようそんこうえんえき)の間にできたあたらしい無人駅。近くに大川ふるさと公園があるが、町のホームページにはこの公園の宣伝が無い。大内宿や塔のへつり(誰かがジャパングランドキャニオンと言った事があり失笑をかっていた)の宣伝は行き届いているのに惜しい。
会津下郷駅や養鱒公園駅は会津線となった1987年以降の名前で、私には「楢原駅」とか「落合駅」の方が馴染み易い名前である。サバシリと言う地名があってサバではなくマスの釣り堀があった。そこで養鱒となった訳であろう。
ふるさと公園駅で車を停めていたら、3台の車が私の車を挟むように停まった。そこに上りの列車がホームに入った。降りてきた女学生を迎えにきた家族の方の車だった。迎えが当然のように無言で車に乗り、少しうす暗くなった冬の夕暮れの中、帰宅を急ぐように車はサッーと走り去った。
会津下郷駅や養鱒公園駅は会津線となった1987年以降の名前で、私には「楢原駅」とか「落合駅」の方が馴染み易い名前である。サバシリと言う地名があってサバではなくマスの釣り堀があった。そこで養鱒となった訳であろう。
ふるさと公園駅で車を停めていたら、3台の車が私の車を挟むように停まった。そこに上りの列車がホームに入った。降りてきた女学生を迎えにきた家族の方の車だった。迎えが当然のように無言で車に乗り、少しうす暗くなった冬の夕暮れの中、帰宅を急ぐように車はサッーと走り去った。
会津下郷駅
2011-02-14
「会津下郷駅と言う名称は昔なかった。俺も小学生だったが、なぜ下郷に楢原と言う名前が・・・と思っていたので、 国鉄時代の駅名は楢原駅だったね!?」と訊くと、「うーん?」と伯父から返事が返った。そうか叔父は只見育ちだったから、その頃の事は私の方が詳しいかもしれない。調べたら、1934年にやはり「楢原駅」として開業し、JRになり、1987年に会津鉄道に変わってから「会津下郷駅」に改称されている。駅舎は森林組合と棟続きで、売店には似合わない「長靴」「鎌」「地下足袋」などホームセンターの品物が置いてあった。
昭和30年当時の町の人口は14,000人でピークであったが、徐々に減り今や半分の人口である。下郷町役場のホームページを見ると、「塔のへつり」「大内宿」など観光に力を入れている。
駅の引き込み線に「AIZUマウントエクスプレス」2両があった。調べたら昔、名鉄JR高山線で特急「北アルプス号」として運行していた車両が2001年に会津線で快速電車として走っていたが、この度廃車となり競売に出されたという事であった。雪に埋もれた電車はどことなく寂しそうであった。町でこの車両を購入して、町の公園を整備してここに安置し、全国の鉄道ファンに見て頂くようにできなかったか?観光に力を入れている町であれば、その辺の情報があっても良かったのではなかろうか。「キハ8500系」は鉄道マニアに大変人気のあった車両で、私もずーとこの車両を見ている間に、この車両の将来を少し覗いてみたくなった。
昭和30年当時の町の人口は14,000人でピークであったが、徐々に減り今や半分の人口である。下郷町役場のホームページを見ると、「塔のへつり」「大内宿」など観光に力を入れている。
駅の引き込み線に「AIZUマウントエクスプレス」2両があった。調べたら昔、名鉄JR高山線で特急「北アルプス号」として運行していた車両が2001年に会津線で快速電車として走っていたが、この度廃車となり競売に出されたという事であった。雪に埋もれた電車はどことなく寂しそうであった。町でこの車両を購入して、町の公園を整備してここに安置し、全国の鉄道ファンに見て頂くようにできなかったか?観光に力を入れている町であれば、その辺の情報があっても良かったのではなかろうか。「キハ8500系」は鉄道マニアに大変人気のあった車両で、私もずーとこの車両を見ている間に、この車両の将来を少し覗いてみたくなった。